2018年2月19日月曜日

私の応援メッセージ その1

先日、とある席上で、こんな話を耳にした。

「海外のゲームクリエイターは非常にもてはやされている」

この言葉を受け、私はいても立ってもいられなくなった。
どうしても、今すぐにでも、感謝の言葉を伝えたい。

今回は私の尊敬するボードゲームクリエイターに焦点を当て、日頃、なかなか伝えることができなかったお礼の言葉を、このブログを通じ、述べさせてもらいたいと思う。
時間と体力の都合上、5人に限定させてもらった点、ご了承願いたい。

1.ノスゲム様(代表作:マムマムマーガレット、マトリンゴ)

安価を追求しがちなボードゲームの世界に、敢えて「高い品質と優れた芸術」で勝負し、現在も独自の路線で活躍する私の中では頑固職人的存在。クオリティは言わずもがな。洋風に和のテイストが絶妙にマッチしたウッドバーニングの技法は、メルヘンチックな世界観との相性も抜群で、見るものすべてを魅了する。
もちろんゲーム性そのものの完成度も高く、飾ってよし、遊んで良し、ボードゲームの新たな形を模索した先駆的存在とも言えるでしょう。前年度からその技術を活かしたトートバッグやエプロン製作などにも力を入れるなど、多方面で露出のある一年となることと存じます。山梨のクリエイターとして、陰ながら応援したいと思います。


2 かぶけん様(代表作:戦国ドミノ、アニマルズ)

激動となった一年の果実を、そろそろ手にできた頃でしょうか。「浪速のクニツィア」の異名を持つだけあり、手がけたゲームは動物や可愛らしいキャラクターをあしらうなど間口を広げつつ、中身はしっかりと腕を必要とする頑固な職人系の作品が多く、裏を返せば、「やればやるだけ上手くなる」といったゲーム根本の面白さを熟知されている第一人者と言えるでしょう。
人柄も明るく、時にそれが多くの人の賛同を集め、長年の夢であったと称される名作「コプラス」は無事完成に至り、再生産プロジェクトも多くの方から予定を超える注文数に至るなど、もはやその世界は最早「浪速」から「日本を代表するクリエイター」として呼び声高い存在となったのではないかと存じます。


3 ぎゅんぶく様(代表作:ワンナイトマンション、スノーマンション)

手に取った第一印象は実に猟奇的な作品でしたが、内容は実にフレンドリーな作品でそのギャップに驚かされた印象が深いです。
ツイプラを立てると、必ずといっていいほど多くの人で賑わうイベントとなった「ワンナイトマンション」は、関東各地のイベントで引っ張りだこの人気クリエイターですが、本人はそんなことなど気にかける様子もなく、いたって普段通りの笑顔で振舞います。
それもそのはず、制作者のぎゅんぶくさんの人となりを知ると一目瞭然、とてもほがらかで、人当たりも良く、インストも大変上手く、何事にも動じない、もちろんゲームをプレイするときは本気になる、本当にボードゲームが好きで、そして自身の作品をもっと多くの方の手にとってもらいたい一心があるからこそ、ここまでアグレッシヴに活動される、まさに「ゲーム制作者かくあるべし」ではないかと、私も肝に銘じながら今後の活動に勤しみたいと思います。


4 あんちっく様(代表作:ディレロア、すごろくダンジョン)

ゲームマーケットなど各地のゲームイベントに自家用車で馳せ参じては、独自路線のカード、ボードゲームを中心とした販売を手がけるデザイナー様、兼ねてから「変則将棋」の名手としても知られており、趣向を凝らしたアブストラクトはその辺りの技巧を取り入れたものだと思慮できます。
ツイート本文もいたって爽やかなお兄さん。明るくユーモラス、だからこそ何でも新しい作品や作風を取り入れ、チャレンジする気風が見られるのでしょう。自分の考えや古い慣習などに固執することなく、柔軟な思考ができるからこその各種作品は、値段もとても良心的でユーザーフレンドリー。ボードゲームの本質とは何かを突き詰めた場合、個人的には、この方の活動に行き着くのではないかな、と改めて実感する次第です。

5 yasーo様(Kawasaki factory プロデユーサー

正確にはクリエイターではなく「プロデューサー」なのですが、尊敬している方なので応援させてください。
天は二物を与えずと言いますが、この方の類い稀なる才能を見る限り、神様の不公平を呪わずに入られません。自社制作の作品を数多くプロデュースされるだけではなく、言わずと知れた「ワードバスケット初代名人」の称号を手にされ、それだけにとどまらず、流れるようなインストの巧みさや各種ゲームの技術や溢れんばかりの知性、そして私のような始めての人間に対しても丁寧にエスコートできる優しさ、何より、外見から漂う気品は多くの女性を魅了してやまないでしょう。
その天才が満を辞してプロデュースされた自信作「アニマーレ・タッティカ」は名の通り高い戦略性で多くのプレイヤーをうならせ、私の中の不朽の名作に君臨し、今でも各種ゲーム会に必ず持参するまでに愛着を持つようになりました。


他にもまだまだ、尊敬すべき方はたくさんいらっしゃいます。その2があれば是非その際に紹介したいと思います。

皆さんの共通点として「笑顔が眩しい」ことが挙げられます。

普段人見知りの激しい私でも、優しく(それがたとえ営業スマイルだろうが)エスコートしてくださった方ばかり、だからこそ、多くの方に愛され、多くの方から作品を寄せられたのではないか、と想像すると、クリエイターの人となりはその作品に如実に表れるものであり、また、クリエイター自身を創造するものは、やはりそのひととなりであるのかな、と妄想するのでありました。

日本中の全ボードゲームクリエイターの皆さまに、幸あれ!






2018年2月17日土曜日

子ども心とボードゲーム

大人になるってなんだろう。

そのことについて、今回は少し書き出してみたいと思う。

少し前のこと、臨床心理士を交えた心理テストを受けたときのこと。
診断結果は「幼児化の傾向が強い」
このタイプは精神的に子供らしく振舞うことが多く、精神的にもろく、時に紳士的な対応にかける反面、辛抱強く、上の者に対し従順で、努力家の傾向がある、などと診断された。

この「子どもらしさ」について、自分の持つ子供らしさとは何か、しばらく喉元に引っかかり離れなかった。

例えば、下園壮太著「自分の心のトリセツ」によると「大人になるとは理不尽を受け入れること」と記述されている。
大人社会に介入するということは、多少の理不尽も甘受すること、ありていにいえば、「努力は報われないこともある」と悟り切ること、とも言える。

私はもうすぐ40歳を迎える。
不惑の年。
恥ずかしながら、この歳になっても未だ「努力で崩れぬ壁などない」を信条とする人間であり、確かにそう言われてみれば、世の不条理に関し、どっしりと受け入れるだけの余裕を持ち合わせるからこその大人ではないか、と、短絡的に想像することができた。

さて、ボードゲームの話である。

「テストプレイなんてしてないよ」という作品が人気を博している。
カードに表記された理不尽とも呼べる指示に従い、それらをかいくぐりつつ勝利を目指すといった内容で、全国各地のゲームショップでは軒並み品切れが相次いでいる。

ボードゲームの世界で忌み嫌われる「理不尽さ」を、敢えて「楽しむ」という方向に照準を変換させる、このアイディアに、私はもはや脱帽するより他はない。

プレイヤーは皆、それら理不尽な世界に没入しつつ、笑いながらカードを読み合わせている。

先ほどの話の中で「大人社会は理不尽を甘受すること」と記載した。
この「テストプレイ〜」を照らし合わせると、この作品は、それら社会に仕向けられた理不尽を真っ向から肯定するという点で、実に「大人な作品」だ。
そして不思議なことに、プレイヤーは皆、笑って理不尽を受け入れている。
この錯誤は一体なんだろうか。


思うに、「真剣味が皆無」だからではないだろうか。
真剣にプレイせず、各々が「遊びの一環だ」という前提があるからこそ、カードの中の理不尽を受け入れるという土壌が自ずと形成されているのではないか。

では、仮にこの作品で、高額な賞金をかけた大会が開催されることとなった場合、どうなるだろう。

答えは簡単。「見た目が変わる」
これまで笑って楽しんできた作品が一転し、欲望と勝算の渦巻く、全く別の作品として生まれ変わるに違いない。

大人社会、理不尽な世界とは、それら「受け入れ難い全て」を、「運命」という強引なベクトルで半ば強制的に合わせ飲むことと言えるのではないか。

「勝利は時の運」という言葉があるように、努力しても必ず勝算がつかめるものとは限らない。
勝負の世界で何が起こるか、は、当日の天候や体調、それこそ「ツォルキン・マヤ神聖歴歴」の歯車の如く、何かのきっかけで大きく歯車がガコガコと動き出され、結果、予想だにしなかった出来事が出力される。
それらを我がごととして受け入れる度量を持ち合わせるからこそ、真の大人と呼べるのではないだろうか。


私は基本的にゲームは理論立てて考えるタイプだ。
しかるに、運に左右される作品も嫌いではない。
それは、運によって生じる「理不尽」もまたボードゲームが教えてくれる「人生の味わい」だと解釈しており、「時に上手くいかないこともある、だからボードゲーム(人生)って、面白い」を実感できる瞬間があるからこそ、長く趣味として没入できるのかな、と、幼心ながら考えてみたりするのであった。

2018年2月12日月曜日

井の中の蛙と大海と ーニケ静岡で学んだ話ー

(2月12日 PM19:30更新)

私の住む山梨県のお隣、静岡県に、「ニケ会」と呼ばれるゲーム会があるという。
かなり評判の良いゲーム会ということで、前々から行こう行こうと思いつつ、これまで行きあぐねていたのである。
ようやく日程を取り付けることのできた私は、前日からすでに緊張して眠れなかったほどだ。
その一部始終を書き留めておきたいと思う。


早朝に目が覚め、どうしてもその日に済ませなければならない用事を猛烈な勢いで片付けた私は、大きなスーツケース2つ分の荷物を抱え、車で2時間ほどの、グランシップ静岡に向けて出発した。

PM13:30、何とか到着
60人規模の会場は既に大勢の人でにぎわっていた。
子供から大人まで、受付の方曰く、常連から(私のような)初参加の方も大勢いらっしゃるのだという。
緊張の面持ちで辺りを見回すと、名古屋からはポッドキャスト「今夜もアナログゲームナイト」でおなじみの太陽皇子のスタッフも駆けつけていらっしゃる。
同卓では中野のkurumariでお会いしたピピタパンさんやじゅんやさんなどもご一緒だ。
テーブルでは「フリッケンアップ」と呼ばれる作品がすでに始まっており、子供たちも交えてプレイされている。皇子のインスト術は、いつ聞いても丁寧かつ無駄がなく、とてもわかりやすい。

遠方から歓声を送りつつ、私もその場に混ぜてもらった。

ゲーム自体はそれほど難しいものでもなく、白と黒のコマに分かれ、相手の駒を指で弾き倒すことが目的のゲーム。大人に混じり、子供達も混じっての参戦だ。
しかしこれが思うようにいかない。場所を移動するか、遠方から一気に弾くかの判断は非常に難しく、失敗する姿を子供らに嘲笑され、思わずむきになってしまう。
それでも、上手く相手のコマを弾き飛ばせたときにはハイタッチをするほど嬉しくなる。
この辺りのさじ加減が、この作品の最大の魅力と呼べるのだろう。

少し休憩を取った後、次は私の手持ちから「ナンバーナイン」を広げることにした。
私は手持ちのゲームを得手不得手特に気にすることなく持参する性格なので、説明はするものの得意である保証などないわけで、当然、このゲームに関しても、私自身は相変わらずビリを独走していた。

昼過ぎに到着し、気がつけば時刻は4時をまわっていた。
頃合いを見計らい、私のボードゲームクイズを広げることに。
早押し機や、このために作成した新作問題も用意し参加者を募ると、物珍しさからだろうか、周りに少しばかり人だかりが出来た。
準備も整い、和やかな雰囲気から少しピリリとしたムードへと切り替わる。それらを一緒くたにしつつ私のクイズは進行した。
念願叶い、太陽皇子が回答者として参加される機会に恵まれた。ピンポンの正解音、「正解!その通り!」という私の声に、思わず周囲から歓声が上がる。
この盛り上がりだけでも、参加する意義は十分あったといえよう。

夕方6時を回るというのに、人だかりは一向に途絶えることはなかった。
このゲーム会の特徴として、個人が「面白い」と思ったゲームならばなんでも、みんなが面白さを共有することにあった。
こと、各地のゲーム会やゲームカフェといえば「誰それが新作を持ち寄り、新作ゲームをプレイする」といった、ともすれば「ゲーム品評会」に傾注するきらいがある。
しかし、このニケ会では「カタンやろうぜ」や「ナンジャモンジャをしましょう」など、往年の名作ゲームを、普段の通り、みんながワイワイ遊ぶような光景が見受けられた。

もちろん「ブタ牧場」「象のトランペット」「キャッシュ&ガンズ」など海外の名作も数多くプレイされてはいたが、ゲームの希少価値などまるで気にすることなく、参加された方全員が、童心に返り、ワイワイと遊んでいる。
小学生であろうとも、きっちりと戦略を立てながら真剣にカードを切り、大人サイドも、子供だからといって容赦することはしない。
大人と子供の立場はあくまで対等であり、フラットな世界が醸造されている。

しかし、それらは同時に笑顔を育んでいた。終了後は対戦者同士が互いにハイタッチするような、しがらみのない、ラグビーの「ノーサイド」の世界がそこには広がっていた。


これらは、「ボ育て」や「ボードゲームの各種メリット」といった形態で各種メディアがこぞって取り上げている「ボードゲームかくあるべし」といった、目指すべき理想の姿ではないだろうか。

フラットな立場での真剣勝負は、同時に、双方に自然と笑顔を育む。
真剣に相手に向き合うからこそ、相手のことを真に分かり合える、
そのための空間こそが、まさにボードゲームがもたらす恩恵であり、ニケ会に参加された一人一人が、少なからずその恩恵に授かっているのだろう。

桃源郷という言葉があるならばこういった世界のことを指すのではないだろうか。

そんなことがふと頭をよぎった。

時間を惜しみつつ、私は帰りの高速へ車を乗りつけた。


さて、以前も記事にしたのだが、私は有意義な時間のあとになると、必ず気持ちが落ち込んでしまうクセがある。
これにはいつも、ゲームをやり尽くした後の疲労感に伴うものだとのだろうかと自分で慰めてもいたのだが、どうやらそれは少し錯誤が生じていたのかもしれない。

「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。

何も知らないカエルのような自分にとって、今回の大規模なゲーム会は、まさに「東海の大海原」とも呼べる。
自分の領域、そして新たな可能性を改めて知ることができたこと、さらにこの「ニケ会」が取りなす大きなフィールドを垣間見ることができた時の、軽い絶望。
「まだ足りない、まだ自分には足りないんだ」
自分の小ささを自覚することへの、抵抗と、恥辱。
ブルーな気持ちの根源は、疲弊した体力も相まって、それらが加算されて生じるものだったのだ。

しかして、それらは、しばらく経過した後に、必ずや悲しみから野心へと取り変わっていく。
体内の自浄作用は、時間の薬を交えた上で、自ずと修復するように出来ているものなのだ。
あくまで自分の中の経験則だが、これまでもそうだったし、これからも、きっとそうに違いない。


きっとしばらく時間を要するだろう。
けれど、それは次回に向けての血となり、肉となり、自分の中の新たなエネルギーとなり、生まれ変わっていく。
巡り巡って、自分の中の未知なる領域へ、そしてそれらは、この「ニケ会」が進む新たな一歩の糧へと、回帰していくものではないだろうか。


学ぶことの意味合いが非常に大きかった今回のニケ会で、とても多くの人に出会い、ボードゲームに触れ、そして数多く学ばせてもらい、主催の方をはじめ参加されました方々、大変感謝しております。

ありがとうございました。是非、次回も、参加致します。

<オマケ>
当日披露いたしました動画クイズを公開いたします
よろしければ御笑覧ください



2018年1月27日土曜日

夢を持つことと積みゲーの話

あくまで僕、一個人の意見として聞いて欲しい。

夢を持て、と人は言う。
それは夢を持つ、持たないとでは、モチベーションそのものに計り知れないほどの差が生じるからではないだろうか。

今回はそんな話をしたいと思う。

四、五年前になる。
とあるマラソン大会に出場することとなった私は、現時点での体力に自信を持つことができず、半年前の丁度この頃から入念な走り込みを行った。
計画的な練習メニューと準備、業務調整に至るまで、細部に渡り練習メニューをエクセルで取りまとめた。
強度別の練習メニューから休息の日時、更には本番から逆算した食事や睡眠のメニューまで取り込んだ日程調整のおかげもあり、本番は無事に完走するに至り、念願のメダルを手にすることができた。

「今でもこのメダルを手にするたびに、辛く苦しかった日々を…」
といった美談があれば良かったのだが、内実、傍観したところで腹もふくれないメダルなど、手に入れてしまえば単なるオブジェと化してしまったのだ。

何故だろう。
あれだけ、生活のほぼ全てを犠牲にしてまで手に入れたといっても過言ではない、そんなメダルだったはず、なのに、だ。

思うに、夢という存在は、やはり「夢」なのだ。
夜、眠っている時に見るものと同義だ。
つまり、覚めて現実に戻ってしまえば、よほど強烈なものでない限り、時間とともに消えてしまう。
現実という存在に、帰結してしまうのだ。

ボードゲームを買って、買ったまま積んだまま放置する問題に似ている。
せっかく高いお金を出して購入したボードゲームを、どうして積みっぱなしにしてしまうのか。
買って遊ぶだけ買えばいいではないか、と、側から見ている人はそう指摘するが、やめられない。
それは、ボードゲーム購入の中に、「夢」すなわち「空想世界で楽しむ作業」という工程が含まれているからではないだろうか。
到着し、現実に手に入れたという「満足”感”」と「充足”感”」で、すでに夢の作業工程は満タンとなり、入手できたボードゲームは付随的なものとなったから。
無理やりこじつけると、そう理論づけることができる。

「こんなこといいな できたらいいな 
あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど
みんなみんなみんな かなえてくれる
不思議なポッケで かなえてくれる」

この印象的な旧世代のドラえもんの歌詞は、現在、少し変更されている

「大人になったら 忘れちゃうのかな
そんな時には思い出してみよう
(中略)
ドラえもん そのポケットで かなえさせてね」

夢をなんでもかなえてくれる、いわば「現実にはあり得ない世界」を提示した歌詞とは対照的に、新世代(といってもだいぶ年数は経過したが)の歌詞は「この夢のような世界は未来に起こりうるかもしれない」といったニュアンスを含んでいるようにも受け取れる。
あくまで筆者の憶測に過ぎないが、時代の経過に連れ、不可能と思われたことが次々に可能となった現代において、夢の存在意義が「かなわぬもの」から「かなえるもの」へとシフトチェンジしたからではないだろうか。

何か長期的な作業を行うに当たり、高いモチベーションを維持するためにも、夢を見ることは決して悪いことではない。
しかし、その「夢」の存在意義が「叶わないもの」であるならば本末転倒だ。
なぜなら、夢はもはや「かなえられるもの」として存在するものであり、叶えるに至る過程こそ、重要視しなければならない存在であるからだ。
目の前にポンと5000兆円提示されたら確かに嬉しいはずなのだが、それがはたしてモチベーションの維持になるかと言われると疑問符が生じる。
同じ夢ならば、汗水垂らして手に入れた5000円ほどの利潤に俄然価値を見出せると言えるのではないか。
(少なくとも私自身はそうだ。あぶく銭なら躊躇せずに使い込んでしまうことだろう)


夢という建造物は、自分自身で、土台からコツコツと作り上げるからこそ、アリ塚の如く頑強となる。
近道など使うことなく、地道に、地道に、歩んだ人間こそ、夢の土台は日に日に強度を増し、どんな雨風にさらされようとも揺るぎないものとなるのだ。


受験シーズン、そして、ゲームマーケット制作追い込み段階、皆様に、陰ながらエールを送ります。





2018年1月22日月曜日

孤独を受け入れる、とは

先日、某ゲーム会にお邪魔したときの話。

ゲーム会は稚拙ながら、私のクイズも披露することができ、また、主催者様の厚い人望に多くの方が集い、会場は多くの方で賑わった。

その帰り道での話。


語弊が生じないよう、あらかじめ断っておきたい。

ゲーム会は、毎回とても充実した時間を過ごしてもらっている。
主催者の方々、本当に感謝しております。

ただ、帰途につく途中、何か寂寥じみた思いに、毎回苛まれる。

単なる寂しさに集約されるものではなく、「ゲーム会で自分の立ち位置は」「何ができて、何ができなかったのか」といった反省事項を、頭の中でぐわんぐわんと巡らせるうちに、どうも思考がマイナスへ、マイナスへと導かれてしまうのだ。

孤独に加え、疲労、倦怠感、都市部から地方へと移る環境の変化等々、要因は多々考えられる。

しかし、この「どうしようもない寂しさ」の存在があまりに凶悪で、時には「行くんじゃなかった」といった後悔の念に苛まれることもしばしばだ。

この件を共感してもらいたくツイートしたところ、「主催者に失礼だ!」と、お叱りの返答を戴く羽目になった。

しかるに、この「寂寥感」の正体とは、一体なんだろう。
本当に私だけが感じ得るものだろうか。


先日、ゲームマーケットのアンケート結果が一部公示された。
希望されるブースには個別に結果を送付してくれるとあったので、興味半分で、私もデータ送付を依頼した。


翌日送られてきた結果は、実に惨憺たるものだった。
ため息が出るほどの低評価と投票率に、送付どころか出展そのものを後悔した次第だった。

この結果に対し

時間をあけて、冷静に分析する考え方
ダメージをダメージとして蓄積し、それらすら内なるエネルギーとして昇華する考え方
気分を切り替えて、逃避に走る考え方

様々あると思う。

私は元来、気持ちを切り替える諸動作が苦手で、一度受けたダメージはかなり後々まで引く性格の持ち主だ。
低評価を受け入れることは容易だったが、それから先の思考に結びつかない。

おそらくこれも「マイナス評価」ゆえに私に待ち構えた何らかの処遇だろうと思う。
負の感情とは裏腹に、「良い評価」が頭に入ってこない。
「これだけ周囲に悪影響を与えた報いだ」
そう誰かの祈りが私に厄災と言った形で通じたのだろうと、ぼんやり考えを巡らせた。

この「行き場のない悩み」に関し、考えが一転したのは、糸井重里著「思えば、孤独は美しい。」に出会ってからだった。
一文を引用し紹介したい。

「ラジオ番組の司会者が
「孤独を感じることは?」と質問した。
とても軽やかに谷川俊太郎さんは答えた。
「孤独は前提でしょう」
夜を見ながら、風呂にでも入ろうか」
(「思えば、孤独は美しい」糸井重里著より)



孤独の存在を、誰でもない、一人であることの意味を
改めて受け入れる、その大きさ、辛さ
そして、「だからこそ感じ取ることのできる、人の温かさ」
孤独の存在を前提に置くことで、見えてくる世界

周囲を見渡せば、SNSに代表される「存在確認ツール」が数多く存在する。
ツイッターや、その前の携帯電話、ポケットベル、それらの前でも、人は手紙や伝書媒体等の手段を駆使し、ありとあらゆる方法で「目に見えない誰かの存在」を感じ取ろうとした。

それは「人は、一人より二人、三人、五人、十人、百人、千人、多ければ多いほど、それがその人のステータスに直結する」とされてきたからではないだろうか。

出どころを失念したが、人はお金を得た次の段階で権力に対する欲求に目覚めると言われる。
「権力者願望」は「金を稼ぎたい」よりむしろ「大勢の人間を指先一つで操ることのできる欲求」への羨望があるからだと容易に推測できる。

小難しく考えなくとも、重い荷物を運ぶのに、筋骨たくましい人間一人と、成人男性5、6人ならば、ほぼ同等か、それ以上の力を発揮してくれる。
会社役員で10人単位の人間に指示をする立場の管理者があれだけ居丈高な態度を取るのも
、それだけの力を保持していると考えれば自明の理だろうか。

閑話休題
今回の件に関し、この「孤独」の概念を取り入れると、若干強引ではあるが、私なりのベクトルに載せることができる。

ゲーム会では、多くの参加者に信頼される(少なくとも私の目ではそう映る)主催者の方に対し、荷物を持って帰る孤独な私を、つい対比してしまったのだろう。


アンケートに関しても、一人で作成した小冊子だからこそ、マイナス評価の数が大きく出たことに対する「数の攻撃」に圧倒されてしまったのだろう。

もっと、プラスに考えなくてはならない。

「出会いを大切に」と言われるように、
孤独があるからこそ、何かしらの欲求や渇望を呼ぶのかもしれない。

それらは決して忌避するものではなく、むしろ受け入れること、自覚することで、ほかのだれかの共感を呼び、新たなエネルギーが生まれるものだろう。

だから、今度は、大手を振って、笑顔で帰りたいと思う。
もっと素直に受け入れることにしよう
もっと太陽の方向を見よう
もっと「だれかの存在」に敏感になろう

花や木が、多くの栄養分を吸い上げて一本の立派な植物をなし得るように
その根っこには、目に見えない多くの生き物の存在がある。
孤独を受け入れるとは、一人であることを前提として、まず、背中にある多くの人間の存在を受け入れることにあるのではないだろうか。
ゲーム会で出会った、主催者をはじめとした、同卓された方、同部屋の方、「袖すり合うも他生の縁」の如く、何でもない一言で運命なぞ大きく変化する、その「なんでもない他者の存在」「そこで改めて実感できる、自分という孤独の存在」を、改めて自覚しようではないか。

アンケートも然り
マイナスだけではなく、それらを含めた、多くの方の存在に、「ありがとう」の感謝を述べることから、まず始めたいと思う。

孤独の存在を受け入れ、そこにある、多くの存在を知る
なんだかパラドクスのようだが、一人があるからこその、二人があり、三人、五人、十人、百人と、幾何級数的に存在の数は増えていくのだろう。



そして、さなぎが蝶へと生まれ変わるように、孤独を育み、醸造し、そこから成長した者こそ、さらに大空へと羽ばたけるのだ。


今はただ、そう信じて、孤独に、コツコツと、作品づくりに励みたいと思う。

「ひとりじゃ、生きられない」
そんな制作ブース様の名前を、今、ふと思い出した。

2018年1月15日月曜日

「おかげさん」が言いたくて〜小冊子を配る日々〜

年末から思い立って、私の小冊子「ボードゲームクイズ」を関係各位に配り歩いている。

「小冊子にお名前を拝借致しました。ご迷惑をかけたお詫びに、どうか受け取ってください」
そんな名目で、方々に、無料で配り回っている。

妻にはいつも渋い顔をされる。
せっかく丹精込めた商品を、タダで配り歩くことに対し、プライドはないのか、自分を安売りするのか、といった理由だ。

私は、小冊子を手渡す際、必ず「感謝の言葉」を添えることにしている。

この小冊子は、単に私の力一人で出来上がったわけではない。
多くの方の作成された資料、冊子、書籍、他愛もないツイートや会話に至るまで、ありとあらゆる情報をかき集め、完成した代物だ。
私一人の力では、とてもじゃないが、ここまでのし上がったわけではないだろう。
それは問題の一問一問だけではなく、完成後手にして頂いた方々はもちろん、「面白い」とツイートされた方々、そして心からボードゲームクイズを楽しんでくださった皆様の力添えがあってこそ、だと心の底から思える。

「おかげさまです」
中国陰陽道において、普段、陰で目立たない存在こそ、陽、すなわち太陽の明るい存在を相対的に明るくするのだという。
陰の存在に感謝する心
それが「お陰さま」の心だという。
「縁の下の力持ち」
日本にはもっと便利なことわざがあるじゃないか。

小冊子を手渡す際、私の口からは、感謝の言葉がとめどなく溢れ出る。
「まだまだ問題にしたい箇所はありました」
「○○の料理って、美味しいですよね」
「雰囲気がいいお店に、自ずから人は集うと言います」
時を忘れ、向こうが根負けするほど、褒めて褒めて褒め倒した頃、私はそっとお店を後にする。
相手からは煙たがられているに違いない。
その想いの丈を伝える代償ならば、小冊子の一冊や二冊、安いものだ。

イジワルをするわけでは毛頭ないのだが、
わたしは、そんな褒め言葉をかけた時の
相手のふと見せる「笑顔」が大好きだ。

はにかみながら、含み笑いをこぼしながら
謙遜したり、強がってみたり、
相手の様々な表情を観察するのも面白い。
そんな中、
口角が緩み、目尻が下がる
作り笑いではない、ホンモノの笑顔を垣間見た瞬間、
わたしの中で、小冊子のお代は、ほぼ等価交換できたものと思っている。


まだ全てのお店を回りきれてはいない。
私の土下座行脚は、これからも続く。
私の褒め言葉ボキャブラリーが枯渇するまで、きっと一生涯続くだろう。

それまで、どうか、この私めに出逢いましても、邪険に扱うことなく、暖かい目で見守ってくださいませ。

2018年1月8日月曜日

新年の抱負〜ご挨拶に変えて〜

皆さま、改めまして、バンちゃんこと、番次郎と申します。
ボードゲームクイズを作っております。

これまでの経緯がどうも曖昧でしたので、話せる部分だけでも、と思い、皆様にお伝えしたいと思います。

なお、ここから先の文章の中に、「うつ病」といった言葉が出てまいります。
気にされます方は、お控えください。


私は、上司から醜いパワハラを受け、このほど12月、心療内科に通うこととなりました。

これ、実は、2度目となります。
以前もありました。
同じ上司からの2度目のパワハラとなります。

昇進をチラつかせ、そのためには「薬を飲まない、健康体であること」を条件とされましたが、1年経ち、2年経ち、「もう1年待て」「またの機会だ」と、あれよあれよと期間を延期され、上司曰く「この12月を乗り切れば昇進だった」らしいのですが、我慢の限界に達し、心療内科のお世話と相成りました。

「成績が全体の5%未満」「ここの職場は超楽勝」「だから薬を飲んでいるお前では外では100%やっていけない」
上司の口癖です。
ほぼ洗脳のように言い聞かされました。

今回12月の心療内科にて、医者の先生とも相談し、「入院もいいけれど、自宅療養で、のんびりされてはどうですか」と勧められました。

上司も同席していたので、私はそれもあるかと思い、受け入れることに致しました。

自宅療養とは、自宅でぐでぇと寝てばかり、といったイメージを持たれるかもしれませんが、実は、自宅を含めた他の地域に出向き、自分が何をやってもいい、という、いわば「自由行動」の世界であることに、後ほど先生から聞かされました。
(おそらく上司連中はそこまで掌握してはいなかったはずです)

私はそれを知り、この療養期間を、自分の「可能性」を探索する期間に充てることといたしました。

人が足りないとあらばできるできないなど関係なく飛びつき(結果、足手まといとなりましたが)、ボードゲーム会とあらばたとえ遠方であろうと駆けつけました。

特に「ボードゲームクイズ」に関し、多くの場所での広報活動を行いました。
小冊子を配り周り、体がへとへとでも早押しボタンを持参で駆け回りました。
ゲームマーケット春に向けて、というよりむしろ、
「私、番次郎という人間の存在を知ってもらいたい」
その一心でした。

おかげさまを持ちまして、当小冊子は好評を博しているようで、なかなかTwitterの検索では引っかからず、私自身、大変気にかかっておりましたが、多くの方から「楽しみにしています」「実は前々から欲しかったんです」といった声援をいただく幸せに預かりました。

明日、9日から私は職場に復帰となります。
おそらく、上司との面談もあることでしょう。

私はその際、はっきりと自分の意思を伝えたいと考えております。

今回の療養期間中、自分の見えなかった「周囲の声」に接する中で、特に、今まで職場の上司のみが判定した「ツカエナイ」といった言葉が、いかに粗雑で、表面的だったのか。
上司の口にする「苦しまなければ金は生み出せない」「お前は楽をして金を生み出そうとしている」「給料どろぼう!」といった言葉に、今なら面と向かって論を返せると思います。

もちろん、そんな勇気はありませんし、そんなことなどせずに黙って「はいはい」と頷くだけの方が、帰って向こうにダメージを与える、ということも薄々感づいております。

そして最後に「ありがとうございました」の言葉を突き返そうと考えております。


我慢するだけでは何も始まらない
行動しなきゃ

ボードゲーム製作者の皆様は、ふとしたきっかけで「遊ぶ側」から「作る側」へとシフトチェンジされました。
行動された、ということです。
溢れんばかりのエネルギーを昇華された、ということでしょう。

私も、今、歩き出そうとしております。



私はこんな時、いつも聞いている曲があります。
「セロアスモンキース」が歌う「I kept my promise to you」です。



サビ部分の和訳を一部掲載致します



少年の物語が終わる時、もう一度、扉は開く
あふれんばかりのラブを持っているなら、未来を変えることができる、
さよならと言える勇気を持てるのなら




お会い致しました皆さまに幸多からんことを!